「神の言葉を蒔く」 03−04−06
ルカ8:1〜15
ある歌謡曲の、人間の存在を肯定する歌詞が、今の若い人たちの
心を捕らえているようです。その歌詞を聞くと、私たちは、「あなたは
神に創られ、しかも御子を十字架にかけてでも救おうとしていただいて
いる特別な存在だ。」という聖書の語りかけを思い起こします。
聖書を知らないで、その曲に心引かれている人たちに、神さまの
言葉を伝えたいと思わされます。私たちは、神の言葉という種を蒔く
者として、伝道する者として、この主イエスの例え話を聴きたいのです。
神の言葉を蒔くのは誰か?と言えば、まず何よりも主イエスご自身
です。昔も今も、主イエスのいらっしゃらない所でなされることでは
ありません。主イエスご自身が一人一人の心に迫って語りかけて
くださいます。
しかし、1〜3節にあるように、そこには主イエスと一緒の弟子や
婦人たちもいました。神の言葉が蒔かれる時に、そこに人も一緒に
いるのです。昔も今も、御言葉の種蒔きに人も参加するのです。
種蒔きに参加していたのは、どんな人たちだったのでしょう。
種を蒔く人と蒔かれる人との大きな違いは、すでに御言葉を
与えられて、それによって生きているという点です。私たちは、自分を
生かす御言葉をいくつも与えられているはずです。主は、「あなたを
生かすその言葉を、私と一緒に蒔こうではないか」と、私たちを招いて
おられます。そして、私たちが御言葉の種を蒔く時には、自分の傍らに
いて一緒に種を蒔いておられる主イエスと出会うことでしょう。
では、どんな地面に種を蒔くのでしょうか。種は、良い地にだけ落ちる
のではありません。しかも、どこがよい地かどうかは人にはわからない
のです。どんなに悪い地に見えても、そこでも種が成長する可能性が
あることは、自分自身のことを考えればよくわかることです。
又、私たちの教会も身を持って知っていることです。
み言葉は、意外なところで根付き成長することは疑いようのない
事実です。ですから、ひたすら蒔くのです。
人には御言葉が必要だと信じるからです。